所員雑感 Vol.12 父と一緒に台湾の旅
2013年11月はじめ、石川県のJA白山観光ツアーで、台北から台中、台南の高尾を、新幹線で往復する旅に参加した。総勢15名中、私の父・妹、叔父夫婦、私の長女と私の6名がにぎやかな群となった。10年ほど前に母が水難で突如この世を去り、父の気力を心配したが、80歳をこえてコシヒカリ農家の現役である。
九州より小さい台湾は、中央部に山脈が南北にのび、三千メートルを超える雪嶺が実に133座あると知り、驚いた。日本は20数峰である。この背骨の西側の平野に都市と産業がひろがる。
1600年代、大航海時代のスペイン、オランダが要塞を築き、やがて清朝の統治下に入った。1894年日清戦争後、日本軍が出兵し、植民地化した。抗日運動に立ち上がった台湾住民数千名が処刑されたという歴史がある。
新幹線は日本製をそのまま持ち込んだもので、どこの駅ビルにも「7-Eleven」と「Mac」が陣取っていた。窓外には、米、サトウキビ、バナナ、パイナップルなどの農村、電子産業工場群、高層マンションが入り乱れた風景が過ぎていった。
日本統治時代の1930年、石川県出身の八田與一技師を現場責任者として建設した鳥山頭ダムを見学。農業灌漑用で、建設当時は世界最大のダムだそうだ。自然と調和した美しい堰堤と湛水湖から流れ出した水が台湾最大の穀倉地帯を作りだしている。八田技師は45歳のとき、陸軍に徴用され、南方に向かう船中で撃沈され、死亡。現在も毎年八田技師の功績に感謝する慰霊祭がとりおこなわれている。メンバーの一人が八田技師の墓前にお線香を焚き、読経を始めたことに皆、感心した。
港町高尾は経済の中心。市内を流れる愛河の水面に両岸の夜景が映しだされ美しかった。台湾は、蒋介石親子が死亡した後の80年代から90年代にかけて高度経済成長を遂げたが、現地ガイドのK氏は、貧富の格差があまりにひどく、2000年代に入ってからは一般サラリーマンの給料が10~14万円から上がらないことに憤慨をしていた。黄色に統一されたタクシーの労働者の賃金は基本給がなく、運転士である夫が休んでいるときには妻が代わりにタクシーを運転しなければ食っていけないという実態も紹介していた。
人民解放軍が日本軍との間で熾烈なたたかいをしているときに、蒋介石が半年かけて北京の宝物のほとんどを運び出し、終戦後台湾に持ち込んだ。これが故宮博物院に収蔵されている。70万点だそうだ。1時間ほどの駆け足で巡ったが、宋時代の青磁をはじめ人間の技の極みに目を見張らされた。
現地ガイドのKさんは、度々徴兵制について言及していた。台湾では国民皆兵で、男子は20歳に徴兵され、役所でクジを引いて、陸海空に配属されるとのこと。兵役は1年だが、学業が中断されるし、就職活動も兵役が終了してからでないとできず、経済の低迷に伴う就職の困難さとも相まって、大きな負担となっていると批判していた。憲法9条の力を感ずるときであった。